お寺の歴史

《地蔵寺略縁起》
 このお寺は、天平9年(797年)の春、奈良の大仏で有名な東大寺建立に力を尽くした、「行基菩薩」によって開基されました。ご本尊『地蔵菩薩』は行基菩薩自らが彫られたもので『日本最勝・日本最古の地蔵菩薩』です。ご本尊は安産祈願の為に、この地に安置されたものですから「子安地蔵さん」と呼ばれています。

 時は流れ天正9年(1581年)、織田信長勢・信孝による高野攻めの際、その兵火に遭い伽藍境内は尽く焼失してしまいました。しかし、ご本尊は人里離れた山中に難を逃れ、村人によって発見されました。その地は「かくれがた」と呼ばれ、今も残されています。

 その後、紀州藩主・徳川頼宣公の姫君の難産を救ったことで、ご本尊に篤く帰依くださり、正保5年(1648年)には頼宣公によって伽藍境内が再興されました。それ以降、歴代藩主をはじめ、臣下の方々も度々ご参詣されました。

 平成に入ってからは「紀伊之国13仏霊場」、「関西花の寺25カ所」の札所として多くの皆様にご参拝いただいています。今では、全国各地からご本尊「地蔵菩薩」の安産のご利益に帰依しようと多くの妊婦さんが足を運んでくださり、また四季折々の花々を一目見ようと遠方よりご参拝いただいています。


〈中本寺として―本末制度―〉
 江戸時代、幕府の政策によって全国のすべての寺院が本末関係を結ばなければならず、地方寺院(末寺)は本山を持つことになりました。これは幕府が仏教教団を管理しやすくするためのものでした。現在はこのような本末制度はなく、このお寺は高野山金剛峯寺を総本山とした、高野山真言宗の寺院の一つです。

 正保2年(1645年)紀州藩主・徳川頼宣公によって高野山・高室院を本寺に据え、市内11の末寺を束ねる中本寺となりました。天明4年(1784年)には1か寺を追加し、明治時代に至るまで、その役目を果たしました。また、末寺12か寺は毎年1月24日に執行された「初地蔵法会」に参集し、天下泰平・武運長久・五穀成就・万民豊楽を祈願したと伝わっています。

〈地蔵寺末寺・12か寺〉
菖蒲谷・観音寺(現・普賢寺)、御幸辻・阿弥陀寺、小原田・薬師寺、胡麻生・大師寺、橋谷・西福寺、橋谷・釈迦堂(現:大恩寺)、矢倉脇・地蔵寺、市脇・観音寺、東家・観音寺、東家・陀羅尼寺(現在は廃寺)、妻・阿弥陀寺、北馬場・阿弥陀寺